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{{ウィキペディア}}'''スペイン'''(España)、'''スペイン国'''または'''スペイン王国'''は、[[ヨーロッパ]]南西部の[[イベリア半島]]に位置し、同半島の大部分を占める[[立憲君主制]][[国家]]。西に[[ポルトガル]]、南に[[イギリス]]領[[ジブラルタル]]、北東に[[フランス]]、[[アンドラ]]と国境を接し、[[飛地]]の[[セウタ]]、[[メリリャ]]では[[モロッコ]]と陸上国境を接する。本土以外に、西[[地中海]]の[[バレアレス諸島]]や、[[大西洋]]の[[カナリア諸島]]、[[北アフリカ]]の[[セウタ]]と[[メリリャ]]、[[アルボラン海]]の[[アルボラン島]]を領有している。首都は[[マドリード]]。
 
{{ウィキペディア}}'''スペイン'''(España)、'''スペイン国'''または'''スペイン王国'''は、[[ヨーロッパ]]南西部の[[イベリア半島]]に位置し、同半島の大部分を占める[[立憲君主制]][[国家]]。西に[[ポルトガル]]、南に[[イギリス]]領[[ジブラルタル]]、北東に[[フランス]]、[[アンドラ]]と国境を接し、[[飛地]]の[[セウタ]]、[[メリリャ]]では[[モロッコ]]と陸上国境を接する。本土以外に、西[[地中海]]の[[バレアレス諸島]]や、[[大西洋]]の[[カナリア諸島]]、[[北アフリカ]]の[[セウタ]]と[[メリリャ]]、[[アルボラン海]]の[[アルボラン島]]を領有している。首都は[[マドリード]]。
  

2020年1月8日 (水) 04:12時点における版

[[ファイル:Escudo de España (mazonado).svg|thumb|400px|スペインの国章]] {{ウィキペディア}}'''スペイン'''(España)、'''スペイン国'''または'''スペイン王国'''は、[[ヨーロッパ]]南西部の[[イベリア半島]]に位置し、同半島の大部分を占める[[立憲君主制]][[国家]]。西に[[ポルトガル]]、南に[[イギリス]]領[[ジブラルタル]]、北東に[[フランス]]、[[アンドラ]]と国境を接し、[[飛地]]の[[セウタ]]、[[メリリャ]]では[[モロッコ]]と陸上国境を接する。本土以外に、西[[地中海]]の[[バレアレス諸島]]や、[[大西洋]]の[[カナリア諸島]]、[[北アフリカ]]の[[セウタ]]と[[メリリャ]]、[[アルボラン海]]の[[アルボラン島]]を領有している。首都は[[マドリード]]。 == 国名 == 正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、'''エスパーニャ'''、'''エスタード・エスパニョール'''などが用いられている。'''レイノ・デ・エスパーニャ'''も用いられることがある。 日本語の表記はそれぞれ、'''スペイン'''、'''スペイン国'''、'''スペイン王国'''。これは英語のSpainに基づく。漢字で'''西班牙'''と表記し、'''西'''と略す。ただし、[[江戸時代]]以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い'''イスパニア'''という呼称が用いられていた。 スペインは、[[国王]]を[[元首]]とする[[王国]]であるが、[[スペイン1978年憲法]]では、それまでの憲法では明記されていた[[国号]]は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、[[君主制]]は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するためにとられた措置であった。 == 歴史 == [[スペインの歴史]]参照 === 先史時代から前ローマ時代 === [[ファイル:Techo de Altamira (replica)-Museo Arqueológico Nacional.jpg|thumb|アルタミラ洞窟壁画のレプリカ。]] [[アタプエルカ]]遺跡の考古学的研究から120万年前には[[イベリア半島]]に人類が居住していたことが分かっている。3万5000年前には[[クロマニョン人]]が[[ピレネー山脈]]を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部[[カンタブリア州]]の[[アルタミラ洞窟]]壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。 この時期の半島には北東部から南西部の地中海側に[[イベリア人]]が、北部から北西部の大西洋側には[[ケルト人]]が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わり[[ケルトイベリア]]文化が生まれている。またピレネー山脈西部には[[バスク人]]がいた。[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在の[[カディス]]近くには[[ストラボン]]の『地理誌』に記述される[[タルテッソス|タルテッソス王国]](紀元前1100年頃)が存在していたとされる。 紀元前500年から紀元前300年頃に[[フェニキア人]]と[[ギリシャ人]]が地中海沿岸部に[[古代の植民都市|植民都市]]を築いた。[[ポエニ戦争]]の過程で[[カルタゴ]]が一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、[[ローマ人]]の支配に代わった。 === ローマ帝国とゲルマン系諸王国 === [[ヒスパニア]]参照 [[ファイル:Merida Roman Theatre1.jpg|thumb|250px|[[メリダ (スペイン)|メリダ]]のローマ劇場。]] 紀元前202年、[[第二次ポエニ戦争]]の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州[[ヒスパニア]]となり(帝政期に[[ヒスパーニア・タラコネンシス]]、[[ヒスパーニア・バエティカ]]、[[ルシタニア]]の3州に分割)、法と言語と[[ローマ街道]]によって結びつけられ、その支配はその後500年以上続くことになる。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。[[キリスト教]]は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている。 ローマの支配は[[409年]]に[[ゲルマン|ゲルマン系]][[スエビ族]]、[[ヴァンダル族]]、[[サルマタイ|サルマタイ系]][[アラン族]]が、それに続いて[[西ゴート族]]が侵入して終わりを告げた。[[410年]]頃、スエビ族は[[ガリシア]]と北部[[ルシタニア]](現[[ポルトガル]])の地に{{仮リンク|スエビ族のガリシア王国|en|Suebic Kingdom of Galicia}}を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方の[[ドウロ川]]にかけて王国を建てている。[[415年]]頃、西ゴート族が南ガリアに[[西ゴート王国]]を建て、[[418年]]頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。[[552年]]、[[東ローマ帝国]]も[[ジブラルタル海峡]]の制海権を求めて南部に飛び地の[[スパニア]]を確保してローマ帝国再建の手がかりにしようとした。 === イスラームの支配 === [[アンダルス]]参照 [[ファイル:Adolf Seel Innenhof der Alhambra.jpg|thumb|upright|グラナダの[[アルハンブラ宮殿|アランブラ宮殿]]。]] [[711年]]、西ゴート王国は[[北アフリカ]]から侵入した[[ウマイヤ朝]]との[[グアダレーテの戦い]]で敗れて[[718年]]に滅び、イベリア半島のほとんどが[[イスラム教|イスラーム勢力]]に征服された。イスラームに征服された半島は'''アンダルス'''と呼ばれる。半島北部の一部(現在の[[アストゥリアス州]]、[[カンタブリア州]]、[[ナバーラ州]]そして 北部[[アラゴン州]])のみが征服を逃れて幾つかの小王国を築き、やがて[[レコンキスタ]](再征服運動)を始めることになる。 イスラームの支配下では[[キリスト教|キリスト教徒]]と[[ユダヤ教徒]]は[[啓典の民]]として信仰を続けることが許されたが、[[ズィンミー]](庇護民)として差別を受けた。イスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスでは[[ムデハル]](イベリア半島出身の[[ムスリム]])が住民の大半を占めていたと考えられている。 半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、北アフリカの[[ベルベル人]]が侵入して[[アラブ人]]と戦い、多くの[[ムーア人]]が[[グアダルキビール川]]周辺を中心に沿岸部の[[バレンシア州]]、山岳地域の[[グラナダ]]に居住するようになっている。 [[カリフ]]が住まう首都[[コルドバ]]は当時西ヨーロッパ最大都市で、最も豊かかつ洗練した都市であった。地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは[[中東]]や北アフリカから先進知識を輸入している。そして、新たな農業技術の導入により、農業生産が著しく拡大した。 だが、11世紀に入るとイスラームの領域は互いに対立する[[タイファ]]諸王国に分裂してしまい、小規模だったキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった。北アフリカから侵入した[[ムラービト朝]]と[[ムワッヒド朝]]が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。 === イスラーム支配の終焉と統一 === 詳細は[[レコンキスタ]]参照 [[レコンキスタ]](再征服運動:''Reconquista'')は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタは[[722年]]の[[コバドンガの戦い]]に始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域に[[アストゥリアス王国]]が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で[[フランク王国]]に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、[[エブロ川]]と[[ドウロ川]]を境界とする。[[739年]]にはイスラーム勢力は[[ガリシア州|ガリシア]]から追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領([[スペイン辺境領]])を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域は[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク国]]、[[アラゴン州|アラゴン]]そして[[カタルーニャ]]を含んでいる。 [[ファイル:Battle of Las Navas de Tolosa.jpg|thumb|left|320px|[[ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]。]] アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。[[1085年]]に[[トレド]]を奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。[[12世紀]]にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、[[13世紀]]に入り、1212年の[[ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]でキリスト教連合軍がムワッヒド朝の[[ムハンマド・ナースィル]]に大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。[[1236年]]に[[コルドバ]]が、[[1248年]]に[[セビリア]]が陥落し、[[グラナダ王国]]が朝貢国として残るのみとなった。 [[ファイル:Losreyescatolicos.jpg|thumb|right|200px|[[カトリック両王]]、フェルナンド2世とイサベル1世。]] [[13世紀]]と[[14世紀]]に北アフリカから[[マリーン朝]]が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀には[[アラゴン王国]]の勢力は地中海を越えて[[シチリア]]に及んでいた。この頃にヨーロッパ最初期の大学である[[バレンシア大学]]([[1212年]]/[[1263年]])と[[サラマンカ大学]]([[1218年]]/[[1254年]])が創立されている。[[1348年]]から[[1349年]]の[[ペスト|黒死病]]大流行によってスペインは荒廃した。 [[1469年]]、[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル女王]]と[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド国王]]の結婚により、[[カスティーリャ王国]]と[[アラゴン王国]]が統合される。再征服の最終段階となり、[[1478年]]に[[カナリア諸島]]が、そして[[1492年]]にグラナダが陥落した。これによって、781年に渡ったイスラーム支配が終了した。[[グラナダ条約]] (1491年)ではムスリムの信仰が保障されている。この年、イサベル女王が資金を出した[[クリストファー・コロンブス]]が[[新世界]]に到達している。またこの年に[[スペイン異端審問]]が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後同じ条件でムスリムも追放された。 イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア(''Hispania'')を語源とするエスパーニャ(''España'')が王国の総称として用いられるようになった。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の[[覇権主義|世界覇権国家]]として台頭することになる。 === スペイン帝国 === [[スペイン帝国]]参照 [[ファイル:Iberian Union Empires.png|thumb|300px|スペイン・ポルトガル[[同君連合]](1580年–1640年)時代の[[スペイン帝国]]の版図。]] [[1516年]]、[[ハプスブルク家]]のカール大公がスペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]として即位し、[[スペイン・ハプスブルク朝]]が始まる。[[1519年]]に[[神聖ローマ皇帝]]カール5世としても即位する。 16世紀前半に[[エルナン・コルテス]]、[[ペドロ・デ・アルバラード]]、[[フランシスコ・ピサロ]]をはじめとする[[コンキスタドーレス]]が[[アステカ文明]]、[[マヤ文明]]、[[インカ文明]]などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民は[[インディオ]]と呼ばれ、奴隷労働によって[[金]]や[[銀]]を採掘させられ、[[ポトシ]]や[[グアナフアト]]の銀山から流出した富は[[オスマン帝国]]や[[イギリス]]との戦争によってイギリスや[[オランダ]]に流出し、[[ブラジル]]の富と共に[[西ヨーロッパ]][[先進国]]の[[資本の本源的蓄積]]の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶ[[ラテンアメリカ]]の従属と低開発が規定された。 スペイン帝国は[[南アメリカ]]、[[中央アメリカ]]の大半、[[メキシコ]]、[[北アメリカ]]の南部と西部、[[フィリピン]]、[[グアム]]、[[マリアナ諸島]]、北[[イタリア]]の一部、南イタリア、シシリー、北アフリカの幾つかの都市、現代の[[フランス]]と[[ドイツ]]の一部、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]、[[オランダ]]を領有していた。また、[[1580年]]に[[ポルトガル王国]]の[[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ1世]]が死去し[[アヴィシュ王朝]]が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは[[16世紀]]から[[17世紀]]のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。 [[ファイル:Portrait_of_Philip_II_of_Spain_by_Sofonisba_Anguissola_-_002.jpg|thumb|upright|フェリペ2世。]] カール5世([[1516年]] - [[1556年]])と[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]([[1556年]] - [[1598年]])の治世が最盛期で、スペインは初めての「[[太陽の沈まない国|太陽の没することなき帝国]]」となった。海上と陸上の探検が行われた[[大航海時代]]であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの[[植民地主義]]が始まった。探検者たちは[[貴金属]]、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期は[[スペイン黄金世紀]]と呼ばれる。 この時期には[[イタリア戦争]]([[1494年]] - [[1559年]])、[[コムネロスの反乱]]([[1520年]] - [[1521年]])、[[スペイン領ネーデルラント|ネーデルラント]]の反乱([[八十年戦争]])([[1568年]] - [[1648年]])、[[モリスコの反乱]]([[1568年]])、[[オスマン・ハプスブルグ戦争]]([[レパントの海戦]], 1571年)、[[英西戦争 (1585年)|英西戦争]]([[1585年]] - [[1604年]])、[[モリスコ追放]]([[1609年]])、そして[[フランス・スペイン戦争]] (1635年-1659年)([[1635年]] - [[1659年]])が起こっている。 16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。更に、[[プロテスタント]]の宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった。 [[ファイル:Spanish Galleon.jpg|thumb|left|upright|16世紀のスペインの[[ガレオン船]]。]] [[1588年]]の[[アルマダの海戦]]で[[無敵艦隊]]が[[イギリス|英国]]に敗れて弱体化を開始する。[[三十年戦争]]([[1618年]] - [[1648年]])にも部隊を派遣。[[白山の戦い]]の勝利に貢献し、[[ネルトリンゲンの戦い]]では戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦や[[マントヴァ公国]]継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。 [[1640年]]には[[ポルトガル王政復古戦争]]によりポルトガルが独立し、[[1648年]]には[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]独立を承認、[[1659年]]にはフランス・スペイン戦争を終結させる[[フランス]]との[[ピレネー条約]]を不利な条件で締結するなど、[[スペイン黄金世紀|スペインの黄金時代]]は終わりを告げた。 [[18世紀]]の初頭の[[スペイン継承戦争]]([[1701年]] - [[1713年]])が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。 この戦争によって新たに[[ブルボン家]]が王位に就き、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、2国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている。 18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。ブルボン王朝はフランスの制度を導入して行政と経済の近代化を行い、また[[啓蒙思想]]が一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。世紀の終わりには貿易が急速に成長し、[[アメリカ独立戦争]]への独立派への軍事援助で国際的地位を向上させている。 === 斜陽の帝国 === 詳細は[[スペイン独立戦争]]と[[米西戦争]]参照 [[ファイル:Carga de los mamelucos restaurado.jpg|thumb|[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]画「1808年5月2日」。]] [[1793年]]、スペインは[[フランス革命|革命]]を起こした[[フランス第一共和政|フランス共和国]]との戦争([[フランス革命戦争]])に参戦したが、戦場で敗れて和平を結んだ。その後、スペインはフランスの衛星国となってしまいイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、フランス海軍とともに[[トラファルガー海戦]]を戦ったがイギリスに惨敗している。戦争とその他の要因で経済が崩壊状態になり、[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]が退位させられ、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]が即位した。 この外国の傀儡国王は恥辱とみなされ、[[1808年]]3月に[[マドリード]]で反乱が発生する。これが全土へ広がり、いわゆる[[スペイン独立戦争]]に突入する。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍の[[ゲリラ]]戦術と[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンの[[ロシア遠征]]の破滅的な失敗により、[[1814年]]にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した。 フランスの侵略はスペインの経済に破滅的な影響を及ぼし、その後の1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂をもたらすことになった。[[1825年]]に[[シモン・ボリーバル]]をはじめとする[[リベルタドーレス]]の活躍によって[[ボリビア]]が独立し、[[キューバ]]と[[プエルトリコ]]以外の全ての[[アメリカ大陸]]の植民地を失った。 [[19世紀]]のスペインは政治的不安定と経済的危機にあり、史上初の[[共和制]]移行([[スペイン第一共和政]])も起こったが、短期間で[[王政復古]]した。この最中に[[フィリピン]]と[[キューバ]]で独立運動が発生した。これらの植民地の独立戦争に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が介入する([[米西戦争]])。[[1898年]]に開戦したこの戦争では、スペイン軍は幾つかの部隊では善戦が見られたものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は"El Desastre"(「''大惨事''」)の言葉で知られている。 === スペイン内戦終結まで === [[ファイル:Dabrowszczacy przysiegaja wiernosc sprawie Republiki.jpg|thumb|right|[[国際旅団]]の[[ポーランド人]][[義勇兵]]。]] [[ファイル:Franco0001.PNG|thumb|right|[[フランシスコ・フランコ]]。]] スペインは[[アフリカ分割]]では僅かな役割しか果たさず、[[スペイン領サハラ]]([[西サハラ]])と[[スペイン領モロッコ]]([[モロッコ]])、[[スペイン領ギニア]] (植民地)([[赤道ギニア]])を獲得しただけだった。[[モロッコ]]での[[第3次リーフ戦争|リーフ戦争]]で大損害を出し、国王の権威は更に低下した。[[ミゲル・プリモ・デ・リベラ]]将軍の[[愛国同盟]](後に[[ファランヘ党]]に吸収)による軍事独裁政権([[1923年]] - [[1931年]])を経て、1931年に[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]が国外脱出して君主制が崩壊し、[[スペイン第二共和政]]が成立した。共和国は[[バスク州]]、[[カタルーニャ州]]そして[[ガリシア州]]に自治権を与え、また女性参政権も認められた。 だが、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続け、[[1936年]]に[[人民戦線]]政府が成立すると軍部が反乱を起こし[[スペイン内戦]]が勃発する。3年に及ぶ内戦は[[ナチス・ドイツ]]と[[イタリア王国]]の支援を受けた[[フランシスコ・フランコ]]将軍が率いる反乱軍が勝利した。この内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り50万人が死亡 、50万人が国を捨て、社会基盤が破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。 ===フランコ独裁政権=== [[スペイン国 (1939年-1975年)]]参照 [[1939年]][[4月1日]]から[[1975年]][[11月22日]]まで、[[スペイン内戦]]の終結から[[フランシスコ・フランコ]]の死去までの36年間は、フランコ独裁下の[[スペイン国 (1939年-1975年)]]の時代であった。 フランコが結成した[[ファランヘ党]]([[1949年]]に国民運動に改称)の一党独裁となり、党は[[反共主義]]、[[カトリック教会|カトリック主義]]、[[ナショナリズム]]を掲げた。[[第二次世界大戦]]ではフランコ政権は枢軸寄りではあったが中立を守った。 第二次世界大戦後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、[[1955年]]まで[[国際連合]]にも加入できなかった。だが、[[冷戦]]の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり状況は緩和した。 ===王政復古から現在=== [[1975年]][[11月22日]]にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス王子]](アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、[[王政復古]]がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、[[スペイン1978年憲法]]が成立して民主化がなされ、スペイン王国は[[制限君主制]]国家となった。[[1981年]]には軍政復帰を目論む一部軍人による[[クーデター]]が発生したものの、軍部の大半は王に忠誠を誓い、無血で鎮圧された。 民主化されたスペインは[[1982年]]に[[NATO]]に加入、同年には[[スペイン社会労働党]] (PSOE) が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生している。[[1986年]]には[[ヨーロッパ共同体]](現在の[[欧州連合]])に加入。[[1992年]]には[[バルセロナオリンピック]]を開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク分離運動の[[バスク祖国と自由|ETA]]によるテロ活動に長年悩まされている。 [[21世紀]]に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている。 [[2002年]]、[[ペレヒル島危機]]が起こり、[[モロッコ]]との間で緊張が高まったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の仲裁で戦争には至らなかった。 [[2004年]][[3月11日]]に[[イスラーム主義|イスラーム主義者]]の犯行による[[スペイン列車爆破事件]]が起き、多数の死傷者を出した。この対応を巡って政治問題となり、右派[[ホセ・マリア・アスナール|アスナール]]政権が倒れ、社会労働党の[[ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ|サパテロ]]政権に代わっている。 ===[[ユーロ危機]]から国家破綻危機へ=== ==== 正念場のスペイン、救済は避けられるか(2012年6月) ==== 発足して半年足らずの[[マリアノ・ラホイ]]首相率いるスペインの[[中道右派]]政権が、一時は回避できると確信していた政治・金融の大惨事の可能性に直面している。[[ギリシャ]]や[[アイルランド]]、[[ポルトガル]]といった[[ユーロ]]参加国に既に提供されている、国際社会による屈辱的な救済措置を受ける可能性が浮上している。 ===== ラホイ首相に三つの選択肢 ===== 昨年の総選挙で社会労働党に圧勝してから経済改革プログラムを打ち出した国民党のラホイ首相は先週末に参加した会合で、不安を募らせている財界人に自信を取り戻してもらおうと次のように語りかけた。スペインは「断がい絶壁の縁に立っているわけではない」「楽な状況ではないが、この世の終わりの前夜というわけでもない」と述べた。 しかしラホイ首相は今後数週間、場合によっては数日のうちに、スペインの将来の経済的繁栄を守ると同時にユーロ圏内で生き残る方法を選択しなければならない。資本が国外に逃げ出し、スペイン[[国債]]の利回りも持続不可能な高水準に近づいている(10年債の利回りは6月1日には6.5%を超えていた)ことから時間的な余裕はない。 ラホイ首相の選択肢は主に3つあると考えられるが、スペインが特に喜びそうなものは1つもなく、3つともスペイン、欧州、そして世界の経済をリスクにさらす。しかし、それぞれがもたらす政治的・経済的な結果は明らかに異なったものになる。 ===== 全面的な救済には4000億ユーロ超必要 ===== (1)全面的な国際的救済措置。ラホイ政権は[[欧州連合]](EU)の諸機関や[[国際通貨基金]](IMF)による正式な救済を何としても回避したいと考えている。介入はそれ自体屈辱であり、厳しい緊縮財政を義務づけられる可能性も高いことから、救済を受ければ国民党の信用が失墜し、数十年は政権から遠ざかってしまうという恐怖心がある。 他の欧州諸国もスペインには債券市場にとどまってほしいと考えており、そのようなドラスチックなやり方は歓迎しない。既に救済された3国については介入の必要性を認めていたが、スペインの経済規模はそれらの合計よりはるかに大きい。 スペインを救済するとなればEUの資源を限界まで使うことになる。一方で[[イタリア]]や[[ベルギー]]、さらには[[フランス]]でさえ支援が必要ではないかとの疑問が生じ、ユーロそのものの存続が脅かされる。 ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)のアナリストの試算によれば、スペイン救済のコスト(苦境に陥った銀行の資本増強、財政赤字の補てん、既存の[[ソブリン]]債務の借り換えなどに必要な資金)は2014年末までの合計で4090億~4550億ユーロに達する。これに対し、今年7月1日以降に設立される予定の欧州安定メカニズム(ESM)に利用できる資金は計5000億ユーロだ。「イタリアは、事態の推移をはらはらしながら見守るだろう」とRBSは語った。 ===== 条件なしの銀行救済を求める ===== (2)「軽め」の救済措置。これが最も有力なシナリオで、現在も様々なバージョンがスペイン政府、EU本部、欧州中央銀行(ECB)、ドイツ政府で検討されている。EUの資金を使ってスペインの銀行の自己資本を増強するのがポイントで(現行規則では、資金はスペイン政府経由で分配されなければならない)、ECBの国債買い入れも併せて再開する可能性がある。 7つの貯蓄銀行が合併してできた大手銀行[[バンキア]]を国有化し、赤字の同行には190億ユーロの資本の追加注入が必要と発表したスペイン政府は、銀行システムを救う資金を外部から調達しなければならないことは認識している。国債市場での調達が難しくなっているからだ。 ただしスペイン政府は、他国で政権を崩壊させた「コンディショナリティー(条件)」をほとんど課されずに、救済パッケージについて合意できそうだと期待している。「介入や、トロイカ(欧州委員会、ECB、IMF)からの条件を課されずに、資金だけ手に入れるにはどうすればよいかが焦点になる」。[[マドリード]]在勤の経済アナリスト、ロレンソ・ベルナルド・デ・キロス氏はこう指摘する。 この選択肢の利点は、欧州の資金の短期的な活用は全面的な救済より実行しやすいことだ。ただし、スペインの銀行に必要な追加資本の試算は300億ユーロから1000億ユーロを優に上回る額まで幅広い。 スペインの政府高官らは無条件のEU基金を要求し、スペインで[[デフォルト]](債務不履行)が生じた場合に最も大きな打撃を受けるのはスペインの債権者、つまりドイツとフランスの銀行だとまでほのめかしてEUとドイツの当局者を怒らせた。 EUとドイツの関係者は動じていない様子で、無条件の支援策はないと話している。もっともEUは、実際にはスペインがまだ手掛けていないことをいくつも要求することはないだろうとも語っている。 ===== 「静観」戦略はうまくいかない ===== (3)何もせず静観。スペインの財務省は大胆にも6月7日に国債入札を実施すると発表した。スペイン政府内には我慢が大事だと考える向きがある。この見方によるとスペインは銀行改革、労働改革、財政改革をはじめ、長期的に経済を健全な状態に戻すために必要なことはほぼすべてやっており、高い金利を払ってでも、今後数カ月間のために蓄えなければならないという。 財務省が今年、差し迫った資金需要よりも多めに借り入れてきたことや、輸出業者が堅調なこと、5年前には国内総生産(GDP)比10%の赤字だった経常収支が均衡に向かいつつあることは、助けになるだろう。 しかし今、この戦略がうまくいくと考えるエコノミストや投資家はほとんどいない。経済があまりに悲惨な状況にあるため、政府はEUと合意した財政目標を達成できそうにないからだ。ベルナルド・デ・キロス氏は、GDP比5.3%を目標としている今年の財政赤字が同7%に達する一方、GDP自体が2%縮小すると予想している。 失業問題は既に労働人口の4分の1を苦しめており、失業者数は600万人に迫りつつある。6月1日に発表されたマークイットの購買者担当者指数は、5月の製造業の経営環境が、[[リーマン・ブラザーズ]]破綻後の危機のどん底だった2009年5月以来、最も急激な悪化を見せたことを示していた。 ギリシャ、そしてギリシャほどでないにせよアイルランドとポルトガルと同様、成長のない緊縮は、政権の座にある人間にとって政治的に有害であり、財政の安定を取り戻すのに役立つかどうか疑わしい。 ==== 10年債利回りが6.857%と過去最高、銀行支援懸念(2012年6月) ==== 6月12日のユーロ圏金融・債券市場では、合意されたスペインの銀行支援策をめぐる懸念から同国の国債利回りが上昇し、10年債利回りは6.857%と過去最高を更新した。 スペイン国債は短期債から長期債にわたり利回りが上昇。10年債利回りは前日比25ベーシスポイント(bp)上昇し、前年11月につけたこれまでの[[1999年]]のユーロ導入以来の最高水準を超えた。 6月9日にユーロ圏財務相がスペインの銀行の資金増強に向け最大1000億ユーロの支援を行うことで合意したものの、デフォルト(債務不履行)が発生した場合、この支援のための融資の返済がスペイン国債の償還に優先して行われ、国債が劣後化するとの懸念から、スペイン国債が大幅に売られた。 INGの金利ストラテジスト、アレッサンドロ・ジャンサンティ氏は「ギリシャ支援の経験から、公的融資は損失から守られる一方で、民間の国債保有者が最も大きく影響を受けるということは学んでいる」としている。 6月14日に国債入札を控えるイタリアの国債利回りも上昇。10年債利回りは6.17%と、前日から13.5bp上昇した。前日は29bp上昇している。 イタリア政府は14日に総額45億ユーロの3年債入札を実施。ラボ銀行の債券ストラテジスト、リン・グラハム・テイラー氏は「入札は良好に推移するとみている。ただ、落札利回りは上昇すると予想している」と述べた。 前日に急伸した独連邦債先物には利食い売りが発生。高い格付けを得ているユーロ加盟国による国債発行が今週相次ぐことによる供給過剰感も相まって、高利回り債券に資金が流れる動きが見られた。独連邦債先物は140ティック安の142.49。独10年債利回りは1.38%と、12.5bp上昇した。 独連邦債が米国債をアンダーパフォームしたことで、両国債の利回り格差は3カ月ぶりの水準に縮小した。独政府は13日に総額50億ユーロの10年債入札を実施する。 ==== ムーディーズがスペインを3段階格下げ。銀行救済で財政悪化へ(2012年6月13日) ==== 格付け会社[[ムーディーズ・インベスターズ・サービス]]は6月13日、スペイン国債の格付けを「A3」から「Baa3」へ3段階引き下げた。ユーロ圏が決定したスペインの銀行向け支援により政府の財政状況が悪化すると指摘した。 またスペイン政府の国際金融市場へのアクセスが「非常に限られている」ことや、ぜい弱な国内経済を理由に挙げた。ムーディーズは格付けを引き下げ方向で見直すとしており、3カ月以内に再び格下げする可能性がある。スペイン経済省の報道官はコメントを拒否した。 ムーディーズは声明で「政府の財政は弱体化し、突然の資金調達停止に対するぜい弱さは増しているが、スペイン経済の低迷が続いているために、数年以内に健全な経済成長が見込める場合と比べて、こうした状況に対する懸念が大きくなっている」と指摘した。 「Baa3」は投機的(ジャンク)等級を1段階上回る水準。 ムーディーズのソブリン担当アナリスト、キャスリン・ミューエンブロナー氏は、スペインの銀行セクター支援策が不十分な場合、スペインは国際社会にさらなる支援を要請する可能性がある、との認識を示した。同氏は「われわれは、スペインが今後数カ月、あるいは数年以内にさらなる支援を要請する必要が生じるリスクが高まっていると考えている。われわれの見方では、それ(支援要請)は強さではなく、弱さを示す兆しになる」と述べ、スペインは国債を発行する上で国内銀行への依存度を高めている、と指摘した。 [[スタンダード&プアーズ]](S&P)のスペイン格付けは「BBBプラス」と、ムーディーズよりも2段階高い水準で、見通しは「ネガティブ」となっている。 [[フィッチ]]は7日にスペインの格付けを3段階引き下げ「BBB」としたが、依然としてムーディーズの水準を1段階上回っている。見通しは「ネガティブ」。 === スペイン利回り7.63%=南欧株価、急落―欧州市場(2012年7月) === 7月24日の欧州市場では、取引終盤にスペイン国債10年物利回りが上昇(価格は下落)し、7.63%(前日終盤は7.5%前後)と、1999年のユーロ導入以降の最高水準を更新した。 スペイン・バレンシア自治州政府が前週末、中央政府に財政支援を要請する方針を示したことをきっかけに、自治州の財政悪化など同国財政をめぐる懸念が再燃。また、スペイン政府が欧州連合(EU)諸国に対する暫定的な支援要請を検討していると一部で報じられるなど、同国がEUなどに全面救済を仰ぐとの観測が強まっている。   同じく債務問題を抱えるイタリアの国債10年物利回りも6.6%台(前日終盤は6.3%台)に急上昇した。また、南欧諸国の株価は急落。ロンドン時間午後4時40分現在、スペインIBEX指数は前日比3.58%安、イタリアMIB指数は2.71%安。 == 政治 == [[スペインの政治]]参照 [[政体]]は[[立憲君主制]]([[制限君主制]])。1975年のファン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、王は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、[[主権]]は国民に在る。王は[[国家元首]]であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。議会の推薦を受けて首相の指名を行なうほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行なう。 [[スペイン君主一覧|スペインの首相]]参照 [[国会 (スペイン)|国会]]は[[両院制]]であり、[[代議院 (スペイン)|代議院]](下院)は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、[[元老院 (スペイン)|元老院]](上院)は定数264議席で208議席が選挙によって選ばれ、残り56議席が地方自治体の代表で構成される。 * 2011年12月現在の与党は[[国民党 (スペイン)|国民党]]で、[[スペイン社会労働党]]と共に[[二大政党制]]を構成する。その他には、カタルーニャやバスクをはじめ地域政党が存在する。 [[スペインの政党]]参照 [[ファイル:SNS Principe de Asturias (R11) during Dragon Hammer 92.jpg|thumb|空母[[プリンシペ・デ・アストゥリアス (空母)|プリンシペ・デ・アストゥリアス]]]] == 軍事 == [[スペイン軍]]参照 スペイン軍は[[スペイン陸軍|陸軍]]、[[スペイン海軍|海軍]]、[[スペイン空軍|空軍]]、[[グアルディア・シビル]]の4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。[[2001年]]末に[[徴兵制]]が廃止され、[[志願制]]に移行した。[[2007年]]の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。 [[アルバロ・デ・バサン級フリゲート|イージス艦]]や[[プリンシペ・デ・アストゥリアス (空母)|軽空母]]、[[ユーロファイター タイフーン]]、[[レオパルト2|レオパルト2EA6]]等最新鋭の兵器を配備している。 == 国際関係 == [[スペインの国際関係]]参照 [[1986年]]の[[欧州共同体|EC]]加盟以降、EUの一員として他のEU諸国との関係が密接になっている。 旧植民地であった[[ラテンアメリカ]]諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・[[ポルトガル]]とラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催される[[イベロアメリカ首脳会議]]にも参加しているが、ラテンアメリカにスペイン企業が進出し過ぎていることから一部には、ラテンアメリカに対する[[レコンキスタ]](本来はイスラームに征服された国土の回復運動だが、ここでは文字通り「再征服」)であるという批判もある。 また、特に南部[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方にイスラーム文化の影響が非常に強く残っていることなどもあり、他のEU諸国と比べるとイスラーム諸国との友好関係の構築に比較的積極的であるといえる。 スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領の[[セウタ]]と[[メリリャ]]の帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。また、スペインが1801年以来実効支配している[[オリベンサ]]に対してポルトガルが返還を求めているが、ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとの[[イベリスモ]]思想も存在する。 日本との関係については[[日西関係史]]を参照。 == 地方行政区画 == [[スペインの地方行政区画|スペインの県]]参照 [[ファイル:Mapa Espanha CC AA.png|thumb|360px|スペインの自治州。]] スペインは、17の自治州から構成される。また、各州は50の県に分かれる。 * [[アンダルシア州]] * [[アラゴン州]] * [[アストゥリアス州]] * [[バレアレス諸島|バレアレス諸島州]] * [[バスク自治州|バスク州]] * [[カナリア諸島|カナリアス諸島州]] * [[カンタブリア州]] * [[カスティーリャ=ラ・マンチャ州]] * [[カスティーリャ・イ・レオン州]] * [[カタルーニャ州]] * [[エストレマドゥーラ州]] * [[ガリシア州]] * [[ラ・リオハ州]] * [[マドリード州]] * [[ムルシア州]] * [[ナバラ州]] * [[バレンシア州]] また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。[[セウタ]]と[[メリリャ]]の諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。[[チャファリナス諸島]]、[[ペニョン・デ・アルセマス島]]、[[ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ]]は、スペインが直轄統治している。 === 主要都市 === [[ファイル:Plaza de sol madrid.jpg|thumb|首都マドリードはビジネス、文化、政治などを総合評価した[[世界都市#世界都市指数|世界都市格付け]]で18位の都市と評価された。]] [[スペインの都市の一覧]]参照 人口の多い上位10都市は次のとおり(2006年1月、[http://www.ine.es/ スペイン統計局]の2007年1月発表のデータによる)。 {| class="wikitable" !width="30px"| !! 都市 !! 州 !! 人口 |----- |align="center"| '''1''' |align="center"| '''[[マドリード]]''' |align="center"| [[マドリード州]] |align="right"| 3,128,600 |----- |align="center"| '''2''' |align="center"| '''[[バルセロナ]]''' |align="center"| [[カタルーニャ州]] |align="right"| 1,605,602 |----- |align="center"| '''3''' |align="center"| '''[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]''' |align="center"| [[バレンシア州]] |align="right"| 805,304 |----- |align="center"| '''4''' |align="center"| '''[[セビリア]]''' |align="center"| [[アンダルシア州]] |align="right"| 704,414 |----- |align="center"| '''5''' |align="center"| '''[[サラゴサ]]''' |align="center"| [[アラゴン州]] |align="right"| 649,181 |----- |align="center"| '''6''' |align="center"| '''[[マラガ]]''' |align="center"| [[アンダルシア州]] |align="right"| 560,631 |----- |align="center"| '''7''' |align="center"| '''[[ムルシア]]''' |align="center"| [[ムルシア州]] |align="right"| 416,996 |----- |align="center"| '''8''' |align="center"| '''[[ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア]]''' |align="center"| [[カナリア諸島自治州]] |align="right"| 377,056 |----- |align="center"| '''9''' |align="center"| '''[[パルマ・デ・マリョルカ]]''' |align="center"| [[バレアレス諸島|バレアレス諸島自治州]] |align="right"| 375,048 |----- |align="center"| '''10''' |align="center"| '''[[ビルバオ]]''' |align="center"| [[バスク自治州|バスク州]] |align="right"| 354,145 |----- |} このほかに、歴史上有名な都市としては、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]、[[バリャドリード]]、[[ブルゴス]]、[[コルドバ]]、[[グラナダ]]、[[トレド]]などが挙げられる。 == 地理 == [[スペインの地理]]参照 === 地形 === [[ファイル:Spain topo.jpg|thumb|right|260px|スペインの地形。]] [[ファイル:Sp-map-ja.png|thumb|260px|スペインの地図。]] スペイン本土は高原や山地([[ピレネー山脈]]や[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラ・ネバダ山脈]])に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川([[タホ川]]、[[エブロ川]]、[[ドゥエロ川]]、[[グアディアナ川]]、[[グアダルキビール川]])が流れている。[[沖積平野]]は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川([[セグラ川]]、[[フカール川]]、[[トゥリア川]])による平野が見られる。 南部と東部は[[地中海]]に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は[[大西洋]]に面し、北部で面している海域はカンタブリア海([[ビスケー湾]])と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。 スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。 === 気候 === 典型的な[[地中海性気候]]であるが、夏の日中は暑く、高緯度のため夏場は22時頃まで陽が沈まない。 == 経済 == [[スペインの経済]]参照 [[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2010年]]のスペインの[[GDP]]は1兆3747億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり、世界第12位である。 [[1960年代]]以来、「スペインの年」と一部では呼ばれていた[[1992年]]頃までの高度成長期が過ぎ去り、低迷していたが、ヨーロッパの経済的な統合と、通貨の[[ユーロ]]への切替えとともに経済的な発展が急速に進んでいる(2003年現在)。市場為替相場を基とした[[国内総生産]]は2008年は世界9位で [[カナダ]]を超えるが[[主要国首脳会議|サミット]]には参加していない。企業は自動車会社の[[セアト]]や[[ペガソ]]、通信関連企業の[[テレフォニカ]]、アパレルの[[ザラ (ファッションブランド)|ザラ]]、金融の[[サンタンデール・セントラル・イスパノ銀行]]などが著名な企業として挙げられる。またスペイン人の労働時間はEU内で第1位である。 しかし、近年の[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の影響からスペインも逃れられず、2011年1月から3月までの[[失業率]]21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている。 === 鉱業 === スペインの鉱業資源は種類に富み主要な鉱物のほとんどが存在するとも言われる。しかし歴史的に長期に渡る開発の結果21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。 有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める[[亜炭]](1228万トン)が有力。品質の高い[[石炭]](975万トン)、[[原油]](32万トン)、[[天然ガス]](22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱は[[アストゥリアス州]]と[[カスティーリャ・イ・レオン州]]にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。 金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の[[水銀]](150トン)のほか、2.1%の占有率の[[マグネシウム]]鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、[[金]]、[[銀]]、[[亜鉛]]、[[銅]]、[[鉛]]、わずかながら[[スズ|錫]]も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸の[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラネバダ山脈]]と[[シエラモリナ山脈]]に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方の[[シウダ・レアル県]]に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に渡って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、[[ビルバオ]]が著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。 その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。 == 国民 == [[スペインの人口統計]]参照 [[ファイル:Banderas_de_las_comunidades_aut%C3%B3nomas_de_Espa%C3%B1a_frente_al_Senado,_Madrid.jpg|thumb|300px|right|スペイン国内の各民族旗。]] === 民族 === [[スペイン人]]参照 [[ラテン系]]を中核とする[[スペイン人]]が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特に[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]、[[バスク州|バスク]]などの住人はスペイン人としての[[アイデンティティ]]を否定する傾向にあり、[[ガリシア州|ガリシア]]や[[カナリア諸島]]の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。一般に「スペイン人」とされる旧[[カスティーリャ王国]]圏内の住民の間でも、[[イスラーム]]文化の浸透程度や歴史の違いなどから、[[アラゴン州|アラゴン]]、[[アンダルシア州|アンダルシア]]の住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。 近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%にあたる522万人にも上る。(2000年の外国人人口は92万人であった。) ==== 民族の一覧 ==== * [[スペイン人]] * [[カスティーリャ人]] * [[カタルーニャ人]] * [[バレンシア人]] * [[バスク人]] * [[カンタブリア人]] * [[アラゴン人]] * [[ガリシア人]] * [[アンダルシア人]] * [[カナリア人]] * [[アストゥリアス人]] * [[レオン人]] === 言語 === [[スペインの言語]]参照 [[スペイン語]](標準スペイン語。カスティーリャ語とも呼ばれる)が全国の[[公用語]]であり、その他[[カタルーニャ語]]、[[バレンシア語]]、[[バスク語]]、[[ガリシア語]]、[[アラン語]]が地方公用語になっているほか、[[アストゥリアス語]]と[[アラゴン語]]もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全て[[ラテン語]]に由来している、また、[[ラテンアメリカ]]で話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。 [[ローマ帝国]]の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉はすたれている。 北スペインのフランス寄りに、バスク語を話す[[バスク人]]が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、他の[[ヨーロッパ]]と共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。 ==== 言語の一覧 ==== 現在、[[エスノローグ]]はスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。 * [[ガリシア語]]([[ガリシア州]]) * [[スペイン語]](国家公用語) * [[カタルーニャ語]]([[カタルーニャ州]]) * [[バレンシア語]]([[バレンシア州]]) * [[アストゥリアス語]]([[アストゥリアス州]]、[[カスティーリャ・イ・レオン州]]) * [[アラゴン語]]([[アラゴン州]]) * [[エストレマドゥーラ語]]([[エストレマドゥーラ州]]) * [[バスク語]]([[バスク自治州|バスク州]]、[[ナバラ州]]) === 宗教 === [[スペインの宗教]]参照 [[カトリック教会|カトリック]]が94%である。[[イベリア半島]]では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていた[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘った[[セファルディム]]もいた。残りは、[[ムスリム]]など。 なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにも関わらず、近年では[[ローマ教皇庁]]が反対している[[避妊具]]の使用や[[同性婚]]を解禁するなど社会的には[[政教分離]]の思想が進んでいる点も特徴である。 === 教育 === [[スペインの教育]]参照 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり、これは[[アルゼンチン]](97.2%)や[[ウルグアイ]](98%)、[[キューバ]](99.8%)と並んでスペイン語圏最高水準である。 主な高等教育機関としては、[[サラマンカ大学]](1218年)、[[マドリード・コンプルテンセ大学]](1293年)、[[バリャドリード大学]](13世紀)、[[バルセロナ大学]](1450年)、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学]](1526年)、[[デウスト大学]](1886年)などが挙げられる。 == 文化 == [[スペインの文化]]参照 [[ファイル:Sagradafamilia-overview.jpg|thumb|220px|[[バルセロナ]]の[[サグラダ・ファミリア]]。]] 情熱的で明るい、気さくな[[スペイン人]]という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ[[闘牛]]は世界中に知られている。 === 食文化 === [[スペイン料理]]参照 スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。 # デサユノ(Desayuno):朝食。起きがけに摂る食事。パンなどを食べる。 # メリエンダ・メディア・マニャーナ(Merienda media Mañana):朝の軽食。午前11時頃、サンドイッチ、タパス(おつまみ)などを食べる。 # アルムエルソ(Almuerzo):昼食。一日のメインの食事で、午後2時頃、フルコースを食べる。 # メリエンダ(Merienda):夕方の軽食。午後6時頃、タパス、おやつなどを食べる。 # セナ(Cena):夕食。午後9時頃、スープ、サラダなどを食べる。 ==== アルコール類 ==== * '''[[スペインワイン|スペイン・ワイン]]''' * '''[[カバ (ワイン)|カバ]]'''(Cava) - [[シャンパーニュ|シャンパーニュ地方]]産ではないのでシャンパンとは呼べないが、シャンパンと同じ製法で作られる[[発泡ワイン]]である。主にカタルーニャ地方で造られている。 * '''[[シェリー (ワイン)|シェリー酒]]''' - シェリーは英名。スペイン名「ヘレス」。アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ原産。 * '''[[サングリア]]''' - 赤ワインを基にしたカクテル。 ==== スペイン料理 ==== * [[スペイン料理]] * [[トルティージャ]](トルティージャ・エスパニョーラ、トルティージャ・デ・パタータ) - ジャガイモのオムレツ * [[パエリア]] === 文学 === [[スペイン文学]]参照 [[ファイル:Cervates jauregui.jpg|thumb|220px|『[[ドン・キホーテ|ラ・マンチャのドン・キホーテ]]』の著者[[ミゲル・デ・セルバンテス]]。]] 12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『[[わがシドの歌|わがシッドの歌]]』はスペイン最古の[[叙事詩]]と呼ばれている。 [[スペイン文学]]においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『[[ドン・キホーテ]]』の著者[[ミゲル・デ・セルバンテス]]が挙げられる。 1492年から1681年までの[[スペイン黄金世紀]]の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人[[サン・フアン・デ・ラ・クルス]]の[[神秘主義]]や、[[ホルヘ・デ・モンテマヨール]]の『ラ・ディアナの七つの書』(1559)に起源を持つ[[牧歌小説]]、[[マテオ・アレマン]]の『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599,1602)を頂点とする[[ピカレスク小説]]、『国王こそ無二の判官』(1635)の[[ロペ・デ・ベガ]]、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625)の[[ティルソ・デ・モリーナ]]などの演劇が生まれた。 近代に入ると、1898年の[[米西戦争]]の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「[[98年の世代]]」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者の[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]や[[オルテガ・イ・ガセト]]、小説家の[[アンヘル・ガニベ]]、詩人の[[フアン・ラモン・ヒメネス]](1956年[[ノーベル文学賞]]受賞)や[[アントニオ・マチャード]]などが活躍した。 [[スペイン内戦]]の時代には内戦中に銃殺された詩人[[フェデリコ・ガルシア・ロルカ]]などが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期には[[ラモン・センデール]]や[[カルメン・ラフォレ]]、[[フアン・ゴイティソーロ]]、[[ミゲル・デリーベス]]らがスペイン内外で活躍した 民主化以後は[[カミーロ・ホセ・セラ]]が1989年に[[ノーベル文学賞]]を受賞している。 セルバンテスに因み、1974年に[[スペイン語圏]]の優れた作家に対して贈られる[[セルバンテス賞]]が創設された。 === 哲学 === [[スペインの哲学]]参照 ローマ時代において活躍した[[ストア派]]哲学者の[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|小セネカ]]はコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下の[[アル=アンダルス]]では学芸が栄え、[[イブン=スィーナー]](アウィケンナ)などによる[[イスラーム哲学]]が流入し、12世紀の[[コルドバ]]では[[アリストテレス]]派の[[イブン=ルシュド]](アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者[[マイモニデス]]もコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン=スィーナーやイブン=ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によって[[アラビア語]]から[[ラテン語]]に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学は[[スコラ学]]に大きな影響を与えた。 17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、[[ベニート・ヘロニモ・フェイホー]]や[[ガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノス]]などの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然とした[[スコラ哲学]]に覆われた。19世紀後半に入ると[[ドイツ観念論]]の[[カール・クリスティアン・フリードリヒ・クラウゼ|クラウゼ]]哲学が影響力を持ち、[[フリアン・サンス・デル・リオ]]と弟子の[[フランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオス]]を中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。 20世紀の哲学者としては、「98年の世代」の[[キルケゴール]]に影響を受けた[[実存主義]]者[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]や、同じく「98年の世代」の『[[大衆の反逆]]』で知られる[[ホセ・オルテガ・イ・ガセット]]、[[形而上学]]の再構築を目指した[[ハビエル・スビリ]]の名が挙げられる。 === 音楽 === [[スペインの音楽]]参照 [[クラシック音楽]]においては[[声楽]]が発達しており、著名な歌手として[[アルフレード・クラウス]]、[[プラシド・ドミンゴ]]、[[ホセ・カレーラス]]、[[モンセラート・カバリェ]]、[[テレサ・ベルガンサ]]などの名を挙げることができる。[[クラシック・ギター]]も盛んであり、『[[アランフエス協奏曲]]』を残した作曲家の[[ホアキン・ロドリーゴ]]や、ギター奏者の[[セレドニオ・ロメロ]]、[[ペペ・ロメロ]]、[[アンヘル・ロメロ]]一家、[[マリア・エステル・グスマン]]などが活躍している。その他にも特筆されるべきピアニストとして[[アリシア・デ・ラローチャ]]と[[ホアキン・アチュカーロ]]の名が挙げられる。近代の作曲家としては、スペインの民謡や民話をモチーフとして利用した、[[デ・ファリャ]]の知名度が高い。 南部の[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方の[[ジプシー]]系の人々から発祥したとされる[[フラメンコ]]という踊りと歌も有名である。 === 美術 === [[スペインの芸術]]参照 イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の[[壁画]]美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期には[[エル・グレコ]]が活躍している。バロック期には[[フランシスコ・リバルタ]]や[[ホセ・デ・リベラ]]、[[フランシスコ・デ・スルバラン]]、[[アロンソ・カーノ]]、[[ディエゴ・ベラスケス]]、[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]、[[フアン・デ・バルデス・レアル]]などが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけては[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]が活躍した。 19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野で[[サンティアゴ・ルシニョール]]、[[ラモン・カザス]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[ジョアン・ミロ]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[ジュリオ・ゴンザレス|ジュリ・ゴンサレス]]、[[パブロ・ガルガーリョ]]などが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。 === 映画 === [[スペインの映画]]参照 [[ファイル:Pedro almodovar and penelop.jpg|thumb|180px|[[ペドロ・アルモドバル]]と[[ペネロペ・クルス]]。]] スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年には[[ルイス・ブニュエル]]によって『糧なき土地』(1932)が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代には[[ルイス・ガルシア・ベルランガ]]や[[フアン・アントニオ・バルデム]]らの新世代の[[映像作家]]が活躍した。 民主化以後は[[ホセ・ルイス・ボロウ]]や[[カルロス・サウラ]]、[[マリオ・カムス]]、[[ペドロ・アルモドバル]]、[[アレハンドロ・アメナバル]]などの映像作家らが活躍している。 === 世界遺産 === スペイン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]一覧に登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が34件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。詳細は、[[スペインの世界遺産]]を参照。 === 祝祭日 === {| class="wikitable" style= |+ '''スペイン全国共通の祭日を以下に示す。この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。 ''' ! 日付 !! 日本語表記 !! スペイン語表記 !! 備考 |- | [[1月1日]] || [[元日]] || ''Año Nuevo''|| |- | [[移動祝祭日]] || [[聖金曜日]] || ''Viernes Santo'' ||[[復活祭]]の2日前の金曜日 |- | [[5月1日]] || [[メーデー]] || ''Día del Trabajador'' || |- | [[8月15日]] || [[聖母被昇天]]の日 || ''Asunción'' || |- | [[10月12日]] || エスパーニャの祝日 || ''Día de la Hispanidad'' または ''Fiesta Nacional de España''|| |- | [[11月1日]] || [[諸聖人の日]] || ''Todos los Santos'' || |- | [[12月6日]] || [[憲法記念日]] || ''Día de la Constitución'' || |- | [[12月8日]] || [[無原罪の御宿り|無原罪の聖母]]の日 || ''Inmaculada Concepción'' || |- | [[12月25日]] || [[クリスマス]] || ''Navidad del Señor'' || |} == スポーツ == [[スペインのスポーツ]]参照 === サッカー === [[スペインのサッカー]]参照 スポーツにおいてスペインでは[[サッカー]]が最も盛んである。[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]は[[FIFAワールドカップ]]に13回の出場を果たしている。1998年の[[1998 FIFAワールドカップ|フランス大会]]予選のときに「[[無敵艦隊]]」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。しかし最高成績は1950年の[[1950 FIFAワールドカップ|ブラジル大会]]の4位と「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、[[2010年]]の[[2010 FIFAワールドカップ|南アフリカ大会]]で初めて決勝に進出し、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]では2度の優勝を経験している。2014年はまさかの予選敗退した また、国内のリーグ戦である[[リーガ・エスパニョーラ]]は、世界各国の有力選手が集結し[[イングランド]]や[[イタリア]]のリーグと並んで注目を集めている。特に[[FCバルセロナ]]対[[レアル・マドリード]]の対戦カードは[[エル・クラシコ]]と呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。 キャプテン翼ライジングサンでは翼がバルセロナにいるという設定になっている === バスケットボール === [[スペインのバスケットボール]]参照 [[バスケットボール]]も[[バスケットボールスペイン代表|スペイン代表]]が2006年に[[2006年バスケットボール世界選手権|世界選手権]]を制覇し注目を集めている。[[NBA]]で活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[[パウ・ガソル]]や[[ホセ・カルデロン]]、[[セルヒオ・ロドリゲス]]らがいる。 === サイクルロードレース === 自転車[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]も伝統的に盛んで、[[ツール・ド・フランス]]史上初の総合5連覇を達成した[[ミゲル・インドゥライン|ミゲル・インデュライン]]をはじめ、[[フェデリコ・バーモンテス]]、[[ルイス・オカーニャ]]、[[ペドロ・デルガド]]、[[オスカル・ペレイロ]]、[[アルベルト・コンタドール]]、[[カルロス・サストレ]]といった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催される[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]は[[ツール・ド・フランス]]や[[ジロ・デ・イタリア]]とともに、[[グランツール]](三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。 === モータースポーツ === 近年は[[モータースポーツ]]も人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。[[ロードレース世界選手権]](MotoGP)の視聴率は40%を超えることもしばしば。[[世界ラリー選手権]]では[[カルロス・サインツ]]がスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。[[フォーミュラ1|フォーミュラ1(F1)]]では[[フェルナンド・アロンソ]]が2005年(当時)F1史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手の[[ラウル・ゴンサレス]]([[レアル・マドリード]])を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。 === テニス === [[テニス]]の水準も高く、近年注目度の高い[[ラファエル・ナダル]]をはじめ[[フアン・カルロス・フェレーロ]]、[[カルロス・モヤ]]といった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦である[[デビスカップ]]でも毎年好成績を収めている。今でも男子世界ランキングで100位に入っている人が一番多い国である。 === その他 === その他にも[[闘牛]]を行う伝統が存在する。近年では[[シンクロナイズドスイミング]]において独特の表現力で世界的に注目を集めている。 == 科学と技術 == [[スペインの科学と技術]]参照 === 医学 === 世界一の臓器移植大国である。 == 著名な出身者 == [[スペイン人の一覧]]参照 == 関連項目 == * [[スペイン関係記事の一覧]] * [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]] === スペインに関する著書が多い作家・文化人 === * [[堀田善衛]] - 小説家 * [[天本英世]] - 俳優 * [[逢坂剛]] - 推理作家 * [[俵万智]] 高橋陽一。キャプテン翼作者 ライジングサンは翼がバルセロナにいる == 外部リンク == * 政府 ** [http://www.060.es/ スペイン政府] {{es icon}}{{en icon}} ** [http://www.casareal.es/index-ides-idweb.html スペイン王室] {{es icon}}{{en icon}} ** [http://www.spainbusiness.jp/ スペイン大使館経済商務部] {{ja icon}} * 日本政府 ** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/spain/ 日本外務省 - スペイン] {{ja icon}} ** [http://www.es.emb-japan.go.jp/japones/index.htm 在スペイン日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [http://www.spain.info/ja/ スペイン政府観光局] {{ja icon}} * その他 ** [http://www.jetro.go.jp/world/europe/es/ JETRO - スペイン] {{DEFAULTSORT:すへいん}} [[Category:スペイン|*]] [[Category:君主国]] [[Category:欧州連合加盟国]]